偏差値44の高校に通う落ちこぼれが、早稲田3学部に逆転合格した話。 vol8.「俺、やっぱり早稲田に入りたい!」
こんにちは〜。
今日は僕が早稲田を受けることを決めてから初めて早稲田の地を踏んだときの話から。
よければ、シェアお願いします!
目次
1.俺、やっぱりここに入りたい!
2.最初で最後の早大プレ
3.運命の賭け
1.俺、やっぱりここに入りたい!
10月もそろそろ終わろうとしています。
実はこの時期、僕の状況は決して「順調」とは言えませんでした。
いわゆる「スランプ」ってやつです。
塾のランキングは下降気味、過去問の成績は一向に伸びない、、、
ちょうど体調を崩していたのもあり、心身ともに疲れ切っていました。
毎日夜中2時まで勉強しても、疲れで次の日の勉強には集中できないという負の連鎖。
やることやること完全に空回り。
「あー俺、本当に早稲田に受かるのかな、、」
お先は真っ暗でした。
しかしそんなある日、たまたまTwitterを見ていると、あるイベントが開催されることを知りました。
2016年早稲田祭
ディズニーランドの1日の来場者よりもたくさんの人が来ると言われている、日本で最大の学園祭です。
ちょうど1週間後でした。
「早稲田を目指そう」と決めたのが夏休みの終わり頃であった僕は、それまで一度も早稲田に行ったことはありません。
「行きたいな。」
直感でそのように思い、なんとか親を説得して早稲田祭に行けることになりました。
そして早稲田祭当日。
朝の4時半に起き、始発の新幹線に乗って東京へ。
東京駅にある無数の出口に悩まされながらも、いくつか電車を乗り継ぎなんとか早稲田キャンパスにたどり着くことが出来ました。
到着すると、僕は自分の目の前に広がっている光景が夢のように感じました。
「す、すげぇ」
学生一人一人から、計り知れないほどのパワーを感じます。
もともと学園祭というものに対していいイメージのなかった僕は、一気に参加している早大生たちが羨ましくなりました。
参加者全員が身体全身で早稲田祭を楽しんでるような気がします。
学生たちの活気に圧倒されながらキャンパスをブラブラしていると、突然二人の学生に声をかけられました。
「受験生の方ですか?」
「え、なんで自分が受験生って分かったんだろう」
その時は疑問に思っていましたが、考えてみれば当然です。
誰とも喋ることなくダサい服を着てブラブラしてるんですから、浮かないわけがない。
「はい、受験生です」
呆気にとられながらこのように返事をすると、その学生は次のように提案してきました。
「もし受験のことで悩みがあったら、一度相談に乗りましょうか?」
ちょうど大きな悩みを抱えていた僕は、二つ返事でその誘いを承諾しました。
学生に連れられ10号館の一室へ。
そこにもう一人の学生が加わり、合計3人の早大生に相談を乗ってもらえることになりました。
自分の抱えている悩みを打ち明けるうちに、だんだんと胸が軽くなってくるような気がしてきました。
聞けばその学生も、決して優秀とは言えないような高校から現役で早稲田に受かったそうで、僕の境遇とよく似ています。
「大丈夫。頑張れば絶対に受かるよ」
周りに早大生の知り合いがいなかった自分にとって、その言葉がどれだけありがたかったことか。
約2時間半相談に乗ってもらい、建物の外へ。
すっかり空はオレンジ色になっています。
そして早稲田キャンパスのシンボル、大隈銅像の前に立ち、僕は誓いました。
「俺、やっぱりここに入りたい。そして、来年は絶対に早大生の一人として早稲田祭に参加する。」
その後大隈講堂の隣のUni-Cafeに行き、早稲田のパーカーと大隈重信をモチーフにしたストラップを買いました。
この日は数か月ぶりに1分もペンを持たない日でしたが、どんな勉強内容よりも確実にためになった日になりました。
2.最初で最後の早大プレ
上記のように誓った1週間後、僕には運命の模試が待っていました。
もう受験も後半戦であったため、僕にとっては最初で最後の早大志願者専用の模試でした。
ちょうど体調を壊していたこともあり、コンディションは最悪。
しかし、自分の今の立ち位置を知らなければならなかったので、受けるほかありません。
問題を解いていても、下を向くとすぐに大量の鼻水が出てくるくらい厄介な風邪でしたが、何とか最後まで受けることが出来ました。
そして1か月後、結果が返ってきました。
657人中154位
偏差値57.5
受験勉強を始めて5か月。
コンディションも最悪でしたが、自分でも驚くほどの成績でした。
「俺、マジで早稲田に行けるかもしれない。」
つい先日まで感じていたスランプも、一気にどこかへ飛んでいきました。
『周りに早大生がいない』というハンデを抱えていた受験勉強でしたが、これまでの努力は確実に実をを結びました。
3.運命の賭け
12月後半。
受験勉強もとっくに後半になり、そろそろ1年が終わろうとしています。
この時の僕には、ある大きな意思決定が迫られていました。
志望校の決定
もちろん第一志望は早稲田でしたが、早稲田専願で臨むほど肝っ玉は強くありません。
"滑り止め”を決めなければなりませんでした。
しかし僕にとって、その決定はそれほど大変なことでもありませんでした。
関西学院大学の全学日程2日間と早稲田3学部
たった5日間の受験日程に決めました。
もちろん母には関学の日程を増やすように反対されました。
しかし、僕は断固拒否しました。
「これで十分」という確信があったからです。
なぜか。
理由はニつあります。
一つ目は、戦術的なものです。
関学だったら早稲田の受かるための勉強でも対応できるから
こう思ったからです。
関学の英語長文は500~600文字ほどで、早稲田の商学部と同じくらいの字数です。
多読ではなく速読に全ステータスを振っていた僕にとって、同志社のように一問一問のボリュームが大きい問題よりも、関学なら確実に受かるという自信がありました。
2つ目はメンタル的なものです。
関学で手こずっているようでは早稲田に受かるはずがないから
関学の一般入試には二つの受験方法があります。
全学日程と個別日程。
それぞれの詳細は省略しますが、個別日程に比べて関学を滑り止めにしている受験生が多い全学日程は難易度が高いです。
「関学なんかで手こずっているようでは早稲田に受かるはずがない。関学で全勝して、本命の早稲田までに自信をつけよう。」
なんとも"若気の至り”感が否めませんが、僕は関学と早稲田、合わせて5日間で勝負することに決めました。
ーおわりー
次回は年が明けてセンター試験からの話になると思います。
今回は以上です。それでは。
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偏差値44の高校に通う落ちこぼれが、早稲田3学部に逆転合格した話。 vol.7「誰にも曲げられない強い意志」
こんにちは〜。
暇ですね。
昨日は受験生活初めての挫折を乗り越えた話から某予備校に入塾した話をしました。
今日は初めて受けた模試の話から。
「いいな」って思ったら是非シェアお願いします!
1.確かに感じた手応え
10月前半。
9月初めに味わった挫折から、早くも1ヶ月が経過しました。
あの挫折以来、それまでの勉強方法を一新し、早稲田に受かるための勉強方法にシフトしていました。
英語に関しては実践の機会を増やし、速読力の強化。
日本史に関しては実況中継や用語集を使って細かいところの知識の定着。
国語に関しては、、、
まだ手をつけてませんでした。
そしてある平日、もう一度早稲田の赤本を解いてみることにしました。
確か商学部の、少し古い年の問題だったと思います。
久しぶりに赤本に触れると、1ヶ月前の苦い記憶が蘇ります。
でも問題を解いていくうちに、前回では感じることのなかった少なからずの"手応え"を感じることができました。
あれほど頭がこんがらがってしまっていた英語もまともに読めます。
日本史に関しても、まだまだ抜けはたくさんあったものの、前回よりもかなりの知識がついているという実感がありました。
結果は、
英語・・・6割弱
日本史・・・6割
国語・・・5割
他の早大志願者と比べたら別段優秀とまでは言えない結果でしたが、自分の中ではかなりの成長を感じました。
"いける。このままやったら、必ずいける。"
この前までは『雲の上の存在』だった早稲田大学も、この時初めて手の届く距離まで追いついたような気がしました。
**
2.誰にも曲げられない強い意志**
10月後半。
ここからはメインで通っていた格安学習塾ではなく、10月から通い始めた某予備校での話です。
僕はこの頃初めて、外部で開催される大きな模試を受けることになりました。
受けると言っても自ら受けたわけではなくて、予備校に言われたから受けただけなんですけどね。
「全統模試」
本名は知りませんが、確かこんな名前だった気がします。
そして迎えた模試当日。
僕はこの日、ある失態を犯してしまったのです。
「あ、やべ。時計持ってきてない。」
こんな大きな模試が初めてだった僕にとって、"試験には時計を持ってくる"と言う当たり前のことが当たり前ではありませんでした。
時すでに遅し。
今更買いに行けるはずもなく、そのまま時計なしで受けることにしました。
数日後、模試の結果が返ってきました。
英語・・・6割
日本史・・・85点
国語・・・5割
少し曖昧ですが、確かこのくらいだったと思います。
模試の結果を参考に、予備校の先生との面談が行われます。
他の生徒には大学生のチューターが「担任」としてマンツーマンでついていたのに対し、毎回1つの授業受けたら爆速で帰っていた僕には大学生のチューターはついていませんでした。
そのため、50歳くらいの塾長が直々に面談をしてくれることに。
「結果見させてもらったけど、君早稲田無理だよ。」
開口一番で、塾長はこのように言ってきました。
よくありがちなドラマのような展開ですね。
「そうですか、、、。」
いきなり自分の目標を否定された僕には、こう言い返すしかありませんでした。
しかし塾長はこう続けます。
「君の今の成績は、1年後に早稲田に受かる高校2年生とちょうど同じくらいの成績だ。現役での合格は諦めて、浪人する前提でカリキュラムを組み直そう。」
塾長はこう言って、いくつかの講座を勧めてきました。
よくある営業トークです。
しかしこの時、不思議と「悔しさ」や「挫折感」などのような感情は一切なく、ある種の疑問を感じました。
「この人何言ってるんだろう。
皆さんも一度考えてみてください。
その先生は受験のプロ。
僕たちのような受験生の勉強をサポートしてお金を貰っている人です。
しかもバイトではなく一校舎の塾長。
にも関わらず、受験生に「現役合格は不可能だ。浪人しろ。」って促すなんて、おかしくないですか?
「自分の職業を否定している」と言ってもいいくらいです。
一気にその先生が胡散臭くなってきました。
と同時に、この時僕には1つの選択が迫られました。
メインで通ってた格安学習塾の先生と、
大手予備校のこの先生、
どちらを信じて受験勉強をしていくか
もちろん、大手予備校の先生の方が実績があり、これまでたくさんの受験生を志望校に送り込んできたと思います。受験に関する豊富な知識もある。
かたや、メインで通っていた格安学習塾の先生は大学生のアルバイトの先生です。
受験に携わり始めてたった4年目。
どちらを信じたほうがいいかなんて明白でしょう。
しかし、この両者には決定的な違いがありました。
"僕の可能性を信じてくれているか"
この違いでした。
大手予備校の先生は「現役合格は諦めろ」と言っているのに対し、メインで通っていた塾の先生は僕に早稲田を目指すきっかけを作ってくれた。
頑張っている自分を一番近いところで見てくれていました。
確かに前者について行けばいつかは早稲田に受かるかもしれないけど、僕は後者を選択しました。
「この人についていくことにして、仮に結果は良くない結果になっても絶対に後悔しない。」
こう思ったんですよね。
だから僕は自分を信じてくれている先生を信じることにしたんです。
だからと言って、
"根拠なんて一切ないただの戯言"
というわけでもありませんでした。
僕には「このままいけば早稲田に受かる」という確信がありました。
なぜか。
その予備校に通う他の生徒よりも、自分のやっていることに自信があったからです。
他の生徒は僕よりもお金や時間など、たくさんのコストを勉強に捧げています。
それに対して僕は受験勉強を始めてたった4ヶ月。
けれど、毎日自分でも驚くような成長を感じていました。。
商学部的に言えば、"費用対効果が高い"と表現すれば分かりやすいと思います。
だから一方的に言われたことをやるという勉強よりも、常に自分で考えながら勉強するという自分のスタイルに誰よりも強い自信があったんです。
夏休みの終わりごろ誓った、
「自分が早稲田合格者第一号になって先生の夢を叶える」
という目標。
それを叶えるためには、なんとしても今年合格するしかない。
何浪して受かろうが意味なかったんです。
もう誰も僕の意思を曲げることはできません。
馬鹿にされることも、「お前じゃ不可能だ。」と言われることも、とっくに慣れていました。
➖おわり➖
いつもは3章から成り立っている僕の投稿ですが、今回は思ったよりも長くなったので2章でおわりです。
明日こそは僕がはじめて早稲田の地を踏んだ時の話から。
今回は以上です。それでは。
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偏差値44の高校に通う落ちこぼれが、早稲田3学部に逆転合格した話。 vol6.「雨のち晴れ」
こんにちは〜。
昨日は僕が早稲田を目指すきっかけになった話と、その後はじめて味わった挫折の話をしました。
今日はその挫折を乗り越えた話から。
1.雨のち晴れ
初めて解いた過去問の結果は"全科目3割"。
少しのことでは簡単に動じない僕も、この時ばかりはさすがにショックでした。
「自分に早稲田なんて夢のまた夢なんだ。」
早稲田を受けることを決めた時はあれほどワクワクしていたのに、その期待はわずか10日ほどで打ち砕かれてしまいました。
とりあえず、このことを早稲田を受けるきっかけを作ってくれた塾の先生に報告することに。
「先生、過去問の結果、全科目3割しか取れませんでした、、、。やっぱり自分に早稲田なんて無理なんですかね。」
メンタルがズタズタの自分に対して先生は、
「あはははは。そうなんだ。良かったじゃん、復習頑張って。」
予想外の反応。目が点になりました。
あれほど思い悩んでいた自分が一気にバカ馬鹿しくなりました。
だって早稲田を目指すことにしてまだ1週間。
相手は早稲田の中でも看板学部の商学部です。
毎年10人に1人しか受からない学部。
例えると戦闘力53万のフリーザに対して、栽培マンにすら殺られるヤムチャが喧嘩を売るようなものです。
受験勉強を始めてたった3ヶ月の僕が太刀打ちできるわけがない。
「もう一回、もう一回0から頑張ろう」
失うものなんてなくなりました。
ある意味無敵です。
もう自分にとって関係のないと思っていた早稲田大学商学部の過去問をもう一度開き、丁寧に復習することに。
すると、自分の弱点が見えてきました。
英語に関しては読むスピードの遅さ。
日本史に関しては細かいところの知識の浅さ。
手をつけてすらいなかった国語に関しては全て。
これ以外にもたくさん弱点はありましたが、これまでの勉強方法から早稲田に受かるための受験勉強にシフトするきっかけとなった経験になりました。
2.宣言
夏休みも終わり、二学期が始まっています。
クラスのみんなも部活を引退し、そろそろ自分の志望校をどうするか考え始める時期です。
とは言っても進路って結構シビアなもので、自分の目指している大学なんて自ら言いたがる奴なんて普通いません。
「落ちた時にカッコ悪い」「バカにされそう」
マジョリティの受験生がこういう風に考えると思います。
けど、僕は違いました。
「俺、早稲田目指すことにした!」
先生やクラスメイトの前で、声高らかにこう宣言しました。
もちろん、ほとんどのクラスメイトには馬鹿にされました。
「この高校から早稲田なんて受かるわけがない。」 「またこいつバカなこと言ってる。」
これが僕の通っていた高校の現実です。
すぐに自分の限界を決めてしまう。
3ヶ月前の僕だってそんな生徒の1人でした。
でも今は違います。
今の僕には誰よりも大きな目標があった。
クラスメイトだけでなく、教師にもバカにされていました。
10月半ばの体育祭当日。
始まるまで時間があったので、テントの中で席に座りながら単語帳を読んでいた時のこと。
「おい〇〇〜。お前何勉強してんだよ。そんなことしても、意味ないからwwww」
古文の教師でした。
ヤバくないですか?教師が勉強してる奴のことをバカにするなんて。
ただ、その頃の僕は失うものは何もありません。
最強です。最強のバカです。
多少からかわれただけで、へこたれるわけがない。
まだ早稲田に受かる確率なんて10%以下なのに、まるでもう自分が早稲田に受かったかのような気持ちになっていました。
これ以降、事あるごとに僕は早稲田を目指していることを宣言していました。
"自分を追い込むため"
ただそれだけのために。
もちろん、落ちたときのリスクはかなり大きかったけれど、何があっても逃げれることができないように、恥を惜しまず自分を追い込み続けました。
3.ある先生との出会い
10月ごろのこと。
それまで、英語と日本史しか勉強していなかったこともあり、さすがに国語の勉強を始めなければならないと焦り始めていました。
僕の通っていた月3万7000円の格安学習塾には国語のサポートはなかったので、完全独学で勉強しなければならないのです。
確かに関関同立なら多少抜けはあっても他でカバーすれば受かるかもしれない。
けど、早稲田は違うと思っていました。
だからと言って、学校の授業を聞いても意味がない。
特に古文は大の苦手科目。
そこで、友達が通っていたこともあり、
「今でしょ。」でお馴染みの某予備校に通うことにしました。
通うというより、古文の講座を受けるだけだったのですが。
たった20個の映像授業で70000円越え。
僕がメインで通っていた塾の2ヶ月分です(笑)
いざ授業を受け始めると、パソコンにヤ〇ザみたいなおじさんが映りました。
古文担当の吉野敬介先生です。
「なんだこのおじさん」
こういうタレントちっくな先生の授業が初めての自分は、この瞬間衝撃を受けました。
授業が始まると吉野先生が熱く語り始めます。
熱い人が大好きな僕は話を聞くうちにどんどん引き込まれていき、たった一回の授業で吉野先生の大ファンになりました。
"今頑張らなかったら一生頑張れない。でも、今頑張ったら一生頑張れるかもしれない。"
この言葉は、今でも僕の座右の銘です。
吉野先生の授業は大好きだったのですが、ずっとその予備校で勉強する気にはなりませんでしたね。
やっぱり自分には大手予備校の雰囲気がどうしても合わなかった。
週に一度映像授業を受けに来ては自習もせずにそそくさと帰って、その後はメインの塾で夜23時まで勉強。
チューターに「このあと勉強していかないの?」と言われても、「しません。」って振り切ってました。
結局普通なら2週間程度で取り終わってしまうこの講座も、全部消化するまでに3ヶ月くらいかかってしまいました。
➖おわり➖
次回は、初めて大きな模試を受けた話から、早稲田に行きたいという気持ちがより強くなった、ある出来事まで。
今回は以上です。それでは。
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偏差値44の高校に通う落ちこぼれが、早稲田3学部に逆転合格した話。 vol5.「僕、早稲田大学に行きます!」
こんにちは〜。
昨日は約2年ぶりに学習塾に入った話をしました。
月謝3万7000円の格安学習塾。
今日は、いよいよ僕が早稲田を目指すきっかけになった話です。
目次
1.あ、関学行けるかも
2.僕、早稲田大学に行きます!
3.はじめて味わった挫折
1.あ、関学いけるかも
高3の夏休みの後半。
毎日の勉強は習慣化され、朝9時に塾に行き23時に帰るというタイムスケジュールが確立していました。
この頃になると、2ヶ月の努力のおかげで語彙力が身につき、もう長文に対する苦手意識もすっかり薄らいでいました。
日本史にも徐々に比重を置き始め、通史はとっくに終わらせていました。
そんなある日、たまたま塾で仲良くなった友達と、関西学院大学(関学)の過去問を解くことになりました。
偏差値60の高校に通う友達が2人、それよりはちょっと劣る高校に通う友達が1人、浪人生が2人、そして偏差値44の高校に通う僕の6人です。
別に競うようなものではなく、「相手を知る」ただそれだけの目的です。
何年かは忘れましたが、関学の社会学部の過去問を解いたような気がします。
結果は、
英語・・・120点ほど
国語・・・5割ほど
日本史・・・6割ほど
まぁ一般的な受験生からすれば特に良くできたわけではない、普通の点数です。
しかしまだ受験勉強を始めて2ヶ月ちょっとしか経っていなかった自分にとっては驚きの点数でした。
「関学いけるな」
受験勉強を始めたといっても根はただのバカ。
いいことがあるとすぐ大袈裟に捉えてしまう性格なので、このような根拠のない自信を抱きました。
2.僕、早稲田大学に行きます!
上記のように、この短期間で自分でも驚くような成長を遂げることができましたが、他の受験生に比べるとまぁまぁと言ったところでした。
ただ、まだ早稲田の3文字は自分の頭にはなかったものの、
"このまま関学を第一志望にしていいのかな''
このようなモヤモヤを抱き始めていました。
そんなある日のこと。
確か夏休みが終わる3日前くらいだったと思います。
当時の僕は塾の2階の自習室②で毎日勉強していました。
しかしそんなある日、偶然その日は日本史担当の先生が来ていたので、「先生と喋りたいなー」と思い、1階の休憩スペースに移動しました。21時くらいだったかな。もう1日のタスクは終えていました。
まさかこの後の1時間で人生が変わるとは夢にも思ってもいませんでした。
休憩スペースで参考書を眺めていると、
急に先生が、
「〇〇、お前は将来何になりたいんだ?」
と、自分の夢を聞いてきました。
「ん〜、僕政治家になりたいんですよ」
マジです。
当時の僕は、
「日本の未来を変えたい」
「この国を誇り高い国にしたい」
こんな大それた理由ではなく、
「偉くなりたい。」
ただそれだけの理由で、政治家になりたいと思っていました。もはや病気です。
先生「政治家か。それだったら、関学にいってもなれないな。早稲田くらいはいかないと。」
僕「いや、早稲田は、、、。いけるわけないですよ。」
まぁ当然の考えだと思います。
なにせ僕の通っている高校の偏差値は44。
ただ、こんな僕に対して先生は、
「いける。このまま本気でやったら絶対にいける。」
先生が本気でこのように言っていたのかは分からないけど、「もっと高みを目指したい。」という漠然な気持ちを抱えていた当時の自分にとっては大きな起爆剤となりました。
話をするうちに、その先生が浪人時代、早稲田に受かる実力はあったものの、家庭の事情で早稲田には進学できなかったというエピソードを聞きました。
先生「俺はもう今年が最後だから、最後にこの塾から早稲田の合格者を出したい。」
当時大学4年だった先生にとって、僕たちが最後の教え子となる学年だったのです。
僕の中で、何かが変わった気がしました。
「自分が早稲田合格者第1号になって先生の夢を叶えたい。」
この熱い先生が大好きだったこともあり、この時はじめて僕は早稲田を目指すことを決心しました。
「俺、早稲田目指すんだ。」
この日は帰るまでずっと、ワクワクしながら早稲田の赤本を眺めてました。
3.はじめて味わった挫折
高校生活最後の夏休みが終わり、2学期が始まりました。
さて、早稲田を目指すことにしたはいいものの、まだ自分の中で『早稲田は雲の上の存在』という意識は消えていません。
「どうせ早稲田なんて昔から勉強している進学校の生徒しか受かるはずがない」
田舎の高校に通っていたこともあり、周りには早稲田にいった知り合いなんて1人もいなかったので、こう思うのは不自然ではないと思います。
そんな時、僕が早稲田を目指すきっかけとなった塾の先生から、過去問を解いてみることを提案されました。
「相手を知る」
このことの重要性は知っていたので、1度早稲田の過去問を解いてみることにしました。
早稲田大学商学部2014年の問題です。
科目は 英語・国語・日本史 の三科目。
6月から受験勉強を始め、わずか3ヶ月で自分でも驚くべき成長を遂げたものの、所詮は付け焼き刃の勉強です。
一方で相手は私立大学の雄。
結果は、‟全科目3割ほど”
苦手意識の薄らいでいた英語も、解いても解いても終わらない長文問題に頭が混乱し死亡。
日本史もたった1度通史を終わらせただけで太刀打ちできるはずもなく死亡。
もはや手をつけていなかった国語も無事死亡。
はじめて味わった挫折でした。
その日は自転車で家に帰る時、信号が変わるのを待ちながら自然と涙が溢れました。
「どうせ自分に早稲田なんて無理。逆転合格なんてできるはずがない。」
「このまま少し頑張って関学さえいけたらそれでいい。」
夏休みは1日も休むことなく毎日受験勉強をしていましたが、この時ばかりは「少しの間勉強から離れたい」という思いがはじめて芽生えた瞬間でした。
➖おわり➖
次回はこの挫折をどうにか乗り越えてから、はじめて早稲田の地を踏んだ時までの話です。
今回は以上です。それでは。
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偏差値44の高校に通う落ちこぼれが、早稲田3学部に逆転合格した話。 vol.4「月3万7000円の格安学習塾」
どうも~。
東京の方は雪が降っているんですね。
さて、昨日は僕が今後の受験生生活で一番重要な武器となる"反骨精神”を抱くきっかけとなった話をしました。
今日は月謝3万7000円の激安学習塾に入塾してからの話。
大体6月~8月前半くらいまでの話です。
目次
1.2年ぶりの学習塾
2.内職生活のはじまり
3.高校生活最後の夏休み(前半)
1.2年ぶりの学習塾
高校3年の6月ごろ、「あ~さすがに受験勉強始めないとやばいな」と思い、塾を探し始めていました。
実は1年生の頃、3か月だけ予備校に通ってたんですよ。
別にその頃から「いい大学に行きたい!」と思っていたわけではなくて、高校受験の時に通っていた塾からそのままエスカレーター式で入塾したんです。
「まぁみんな入ってるし自分も入ろう」
なんていう軽い理由で入っていました。
そんな理由で入ったような人間が長続きするはずもなく、夏休みに入るまでには辞めましたね。
なんていうか、大手予備校の「The・受験生」っていう空気がどうも苦手で、しかも周りの生徒はみんな自分なんかよりも優秀な高校に通っている生徒ばかり。劣等感を感じないはずもなく、まったく楽しくなかった。
こんな経験があったので、大手の予備校に入るという選択肢は頭にはありませんでした。
そんなある日、親に某学習塾を勧められました。
"月謝3万7000円の格安学習塾”
「暇だし説明会に行ってみるか」
こんな軽い気持ちで説明会に行ってみました
よく漫画であるような、「ここなら頑張れそう!」なんて展開にはならなかったんですけど、半分親に強制され結果その塾に入ることが決まりました(笑)
僕の通っていた校舎の生徒数は現役と浪人合わせて40人ほど。
週に2回の英語の授業と週1回の日本史の授業だけで国語のサポートはなし。社員は1つの校舎に2人ほどで、それ以外は大学生のアルバイト。
まぁ値段相応です。
お世辞にも「サポートが手厚い」とは言えないような塾でしたが、その放任な環境が後に自分が下剋上受験を達成する一つの要因になりました。
2.内職生活のはじまり
塾に入っていきなり、単語帳と熟語帳、構文書が配られました。
だいたい2200語ほどの単語帳と1500語ほどの熟語表。
「ひゃーこんなに覚えないといけないのか。」
ターゲットですら長続きしなかったような人間ですから、イラストなんか一切ない、地味な単語帳で単語を覚えられるのか最初は半信半疑でした。
「来週の単語テストまでに単語1周してきてね。」
塾の先生からの指令。
全くそれまで受験勉強をしていなかった自分は、300個の単語を回すのですら3時間以上かかります。
学校に通いながらの受験勉強だったので、単語も熟語もちゃんと覚えようと思ったらまともに授業なんか聞けるはずもありません。
「よし、今日からは授業聞かずに内職しよう」
さぁ、怒涛の内職祭りのスタートです。
その日以来、学校の授業中は内職か昼寝かの二択のみになりました。
もちろん、教師からは死ぬほど嫌われました。
内職のおかげで、なんとか入塾から1週間後の単語テストまでに1周を終わらせることが出来ました。
とは言ってもまだ1周だけ。
一回目の単語テストの結果は、100点満点中たったの8点でした。
塾の授業システムは、どこかの大学の過去問を使った長文テストを解き、時間経過後に先生が問題の解説をしてくれるというとてもシンプルなもの。
3週間分の点数を合計し、浪人も現役も関係なく全国600人ほどいる生徒のランキングが出ます。
「なんだこりゃ」
塾に入って間もない頃の自分には、英文が宇宙語に見えました。
語彙力になさ、構文に関する知識の欠如や読解力のなさ、、、
原因はたくさんあります。
そもそも中学2年の「関係代名詞」で挫折した自分にとって、文中に出てくる"that"や"which"の意味が分からず、まともに読める文章もないくらいの英語力でした。
ランキングの結果は600人中540位ほど。
それまでの自分ならすでに諦めていたことでしょう。
でも、このランキングの結果が負けず嫌いの自分に火をつけます。
僕の高校の偏差値は44。
さすがの自分でも定期テストでは少し勉強するだけで簡単に上位になれます。
いつの間にかその環境に慣れてしまっていたんですよ。
けど塾は違いました。
他の生徒はみんな、自分よりも偏差値の高い高校に通っています。
自分なんかよりもうんと早く受験勉強を始めています。
もちろん、まだ入塾したばかりで成績が低いのは当たり前なのだけど、みんなに負けているのが悔しくて悔しくて仕方がなかった。
圧倒的な語彙力のなさを克服するため毎日毎日が単語・熟語の繰り返し。
徐々に覚えてきたら1日300個から500個、700個と段階ごとに増やしていきました。
各授業で習った文章を何回も何回も音読しました。
そして迎えた1か月後(7月)の単語テスト。
結果は100点中56点。
他の生徒に比べたら別段優秀とは言えない結果ではあったけど、当時の自分にしたら大きな大きな成長でした。
3.高校生活最後の夏休み(前半)
梅雨もすっかり明け、だんだんと暑くなってきた頃、高校生活で最後の夏休みを迎えました。
受験生にとってはとても重要な時期です。
この頃になると毎日勉強することが習慣化され、単語や熟語を回すことが苦にならなくなっていました。
とは言ってもこの頃のランキングは600人中450位ほど。
多少の語彙力が付いただけで、まだ英文を"読める”状態にはなっていなかったのだけど。
僕の塾にも夏期講習がありました。
夏期講習と言っても特別な講座が開講されるわけでもなく、いつもの授業システムのままで、3日連続の授業が2ブロックあるだけです。全部で6日間。
1つ目のブロックの講座の段階ではまだ英文を読める状態ではありませんでした。
それでも諦めず、毎日塾にこもって勉強をしていました。
朝9時に塾に行って単語1000個熟語750個。そのあとはひたすら過去の授業の文章の音読の繰り返し。
塾が閉まる23時まで毎日こもって勉強していました。
そして来たる2ブロック目の夏期講習。
それまでまともに読めなかった長文を、初めてまともに"読む”ことが出来たのです。
それ以降は快進撃です。
次の回、また次の回とどんどん点数が上がっていき、100人、200人と他の校舎の生徒をどんどんごぼう抜きしていきました。
「もしかしたら関学にいけるかも」
およそ2ヶ月の努力が身を結び、どんどん自分に自信がついていきました。
—おわり—
この頃の僕にはまだ、「早稲田を受ける」という選択肢はありません。
次回はいよいよ僕が早稲田を目指すきっかけとなったお話です。
今日は以上です。それでは。
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偏差値44の高校に通う落ちこぼれが、早稲田3学部に合格した話 vol.3「小さな2つのきっかけ」」
前回は、中学で落ちこぼれてから底辺高校に入学したまでの話をしました。
今日は受験勉強を始めるまでの話。
今振り返ってみると、僕が早稲田の目指そうと思うまでに、間接的ながらも小さな2つのきっかけがありました。
勉強の合間などに、"おやつ感覚"で読んで欲しいと思っているので、今日からは数ヶ月ごとに区切って話しますね。
目次
1.学校1のひねくれ少年誕生
2.はじめての参考書購入
3.え、指定校って併願できないの?!
1.学校1のひねくれ少年誕生
高2の3月、進学校の受験生なら「残り1年...!」と必死に勉強する中、僕はというとのほほんとしていました。
「お前ら、この時期は3学期じゃなくて3年の0学期やからな!!」
進学校からは程遠いのに教師はやる気いっぱい。一方の生徒たちは、僕含め、自分の進路に真面目に向き合ってる生徒なんてほとんどいませんでした。
やっぱりこういう高校に通う人間って、努力をしないんですよ。自分の限界を勝手に決めて、それを越えるための努力をしない。
僕もその1人でした。
そんな時、学校でとあるイベントがありました。
〜卒業生を囲む会〜
これは、今年卒業する先輩達を数人呼んで、在校生の前でどうやってその進路をつかみ取ったのか、その過程を話してもらうというものです。
今振り返ってみると、このイベントこそが僕が早稲田に受かるまでにずっと抱いていた"反骨精神"を手に入れるきっかけとなったイベントでした。
偏差値44の県立高校。
来てくれる先輩は、大学に進む人だけでなく、就職する人、専門学校にいく人など、それはそれはバラエティに富んでいました。
「高卒やないか!」
「せ、専門wwwww」
「中途半端大学やないか!ahahahahahaha」
もしその現場に高田ふーみんがいたら、間違いなくこのように発狂しています。
私立文系に進む人を代表して、産近甲龍の中の某大学に合格した人が話をしていました。
なにせこの時は3月です。受験が終わって間もない頃ということで、まるで天下を取ったかのようなとても満足そうな表情で話をしていました。「何月に勉強を始めて、こういうことを意識しながら勉強してましたーー」っていうよくありがちな受験話です。
他のみんなは自分の1年後を思い浮かべながら真面目に聞いています。
「え、でも産近甲龍だよな。なんでそんな自慢げに話してるんだろう。」
人の話を素直に聞くことができない病気を患っている僕は、まだ受験勉強なんて始めていないにもかかわらずこのように思っていました。
所詮は産近甲龍。
僕の高校からは「受かったらあっぱれ」な大学でしたが、世間的には大した大学ではありません。普通の大学です。
話を素直に聞けないどころか、いつの間にか反発心を抱くようになりました。
「この人達みたいに大した結果も残してないのに、デカい顔して人に説教たれるような人間にはなりたくない。」
おめでとうございます。
学校1のひねくれ少年の誕生です。
先輩の受験話は全く参考にはなりませんでしたが、今考えるとこの時に抱いた"反骨精神"は、後の受験勉強でも大きな原動力になりました。
余談ですが、1年後の卒業生を囲む会、早稲田に受かったにもかかわらず、僕は呼ばれませんでした。
え、なんでかって?
死ぬほど教師から嫌われてたからです。
アーメン。
2.はじめての参考書購入
高校3年の4月。新しい年度の始まりということで、年に一回のクラス替えがあります。
僕の高校は、全員が大学に進むわけではないので、希望進路別にクラスが決まります。
私立文系・理系・国公立・専門学校・看護・就職組 などなど、結構細かく分けられます。
就職組クラスはもはや動物園。
ヒトの形をした多種多様な動物が生息しています。
僕は成績だけは良かったので、私立文系クラスの中でも優秀な方のクラスになりました。
この時期の僕の頭にはまだ早稲田を受ける気はさらさらありません。
「どうせ自分の高校から早稲田なんていけるはずもない」
っていう固定観念しかありませんでした。
とは言っても、なんとなく「みんなと同じ大学にはいきたくない」とは思っていたので、
"関西学院大学”を目指すことにしました。
関学を選んだ理由に深い理由はありません。
"なんかオシャレだから"
ただそれだけの理由でした。
『産近甲龍あっぱれ』の自分の高校からは関学にいける人が毎年いるわけではなかったので、みんなと同じように受験勉強していたら当然受かりません。
そこで、周りの友達がまだ部活に熱中している中、自分ははじめての参考書を買いました。参考書というか、単語帳なんだけど。
『ターゲット1900』
これが、僕が人生ではじめて受験用に買った参考書です。
はじめて買った参考書ということもあり、
なぜか買ってから数日間だけはやる気が出て、休み時間や行き帰りの電車の時間はずっとターゲットを読んで単語を覚えようとしていました。
とは言っても、それまで定期試験の勉強しかしてこなかった自分には初見の単語ばかり。
段々としんどくなってきました。
日に日に単語を覚える時間は短くなっていきます。
「まぁまだ頑張らなくていいや。」
最初はあれほど一生懸命やろうとしていたターゲットも、1ヶ月後にはただの"置き物"と化しました。
3.え、指定校って併願できないの?!
5月頃、担任の先生との15分ほどの進路指導がありました。
当時の僕は、成績が良かったこともあり、
甲南大学を指定校推薦で確保しながら関学を受験しようと考えていました。
偏差値50ちょっとの甲南でも、僕の高校からしたら高嶺の花です。
ちょっと成績に自信のある奴らがこぞってその限られた指定校の枠を狙います。
そして迎えた進路指導当日。
先生「〇〇くんはどの大学か決めた?」
僕「一応、甲南を指定校でもらって関学受験しようかなと、、、」
先生「?? 指定校と一般の併願はできないよ」
僕「あ、そうなんですね( ̄∇ ̄) じゃあいいです。」
僕の進路指導はものの2分で終了です。
残りの時間は先生と談笑していました。
でも、考えてみたら普通に分かることです。
いわば指定校推薦は学校を代表していくもの。
指定校を保険にしながら大学受験なんて出来るはずもなく、この進路指導をきっかけに僕の頭から指定校推薦のことはすっかりなくなりました。
この時逆の選択をしていたら、、、
一般受験を諦めて指定校で妥協していたら、間違いなく今の僕は"井の中の蛙の一匹"として、他の大学に通っていたと思います。
➖終わり➖
次回からはいよいよ月3万7000円の塾に入塾し、受験勉強を本格的に始める話です。
今日は以上です。それでは。
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偏差値44の高校に通う落ちこぼれが、早稲田3学部に逆転合格した話。 vol2「転落」
どうも、くろまめです。
二作目です。
今回は僕の中学から高校に入学するまでの話をしようと思います。
「早稲田に行きたい」
そう思い始めるうんと昔の話です。
目次
1.サッカー馬鹿だった中学時代
2.なんとなく勉強し、底辺高校へ
3.高校入学。一日目に感じた後悔。
1.サッカー馬鹿だった中学時代
2011年4月、僕は地元の公立中学校へ入学しました。1学年の人数は大体200人くらい、まぁ地方なら多くもなく少なくもないって感じの普通の中学です。
中学時代の僕は、口が裂けても優秀とは言えないような"落ちこぼれ中学生"でした。
定期テストの成績は200人中140位ほど。これと言って得意な教科もなく、授業中は友達とケシカス投げ合って遊んだり、ノートに落書きしたりと、授業態度は最悪。
生活態度も同様で、週に一回は何か問題を起こして放課後に呼び出されていました。男子なら誰もが一度はかかる病『厨二病』。
その中でもステージ4だった僕はもう手の施しようがありません。
そんな僕でも1つだけ熱中できるものがありました。
「部活」です。
当時サッカー部に入っていた僕は、朝から晩までずっとサッカーのことを考えている、いわゆる「サッカー馬鹿」でした。
朝は先輩に混ざって学年の中1人で朝練に参加したり、朝の読書ではサッカーに関する本ばっかり読んでいました。
厳しくも生徒思いだった顧問の先生にはしょっちゅう殴られ蹴られ、何度も何度も挫けそうになりながらも部活だけは妥協することなくやりました。
「やると決めたことはとことんまでやる」
不器用ながらも中途半端が大っ嫌いな性格が、後の大学受験でも役になったのかもしれないと、今考えたらそう思います。
2.なんとなく勉強し、底辺高校へ
前述の通り、成績が最悪だった僕は、行きたい高校を自由に選べる様な生徒ではありません。
通知表に書いてある成績はほとんどが「2」。
学期に一度の三者面談でも、そのほとんどが生活態度に関する説教に費やされるため、進路に関する指導はほとんどありませんでした。
「さすがにやばい」と思ったのか、親が家庭教師をつけてくれたはいいものの、それもほとんど意味がなく、、、
というより家庭教師と一緒に学校の宿題をしていたので、本来の使い方じゃなかったんです。
周りのみんなが受験勉強をする中、僕は完全に取り残されていました。
そんなある日、中学3年の冬休み、僕に転機が訪れます。
たまたま仲の良かった友達に誘われ、その塾に冬季講習から入塾することになりました。
『テストの成績が良かった生徒はみんなの前で表彰される』
この単純なシステムが良かったのか、褒められれば褒められるほど伸びる典型例の様な自分は、先生に褒められるためだけに毎日勉強する様になりました。
そして約三か月後。
無事第一志望の高校に入学することが出来ました。
まぁ、偏差値44の県立高校なんだけど。
3.高校入学。一日目に感じた後悔。
無事高校に入学し、絵に描いたような青春を夢見ていた僕を待っていたのはそれとは正反対の高校生活でした。
入学式初日から「起立・礼」の練習。少しでも出来なかったらすぐに説教。どこからどう見てもその姿は軍隊。
「あ、入る高校ミスった」
入学式初日から抱いていたこの感情は、卒業するまで消えることはありませんでした。
低偏差値高校だからか、やけに生徒指導が厳しくて、少しでも髪の毛をいじったらすぐに坊主。朝、数回遅刻するだけでその後1週間は校門の前で挨拶当番。まるで公開処刑。
「個性」や「自由」なんかからは程遠い高校です。
こんな高校でやりたいことも見つけられるはずもなく、1年の頃の成績は280人中真ん中ぐらい。中学の頃にあれほど熱中していたサッカーも顧問と合わないことを理由に途中で辞め、文字通り"なにもない"高校生になりました。
そんな自分にも、ある日目標ができます。
2年にあがると同時に、「今年は定期テストくらいはちゃんとやるか〜」と決め、2年になって初めて、定期テストで「テスト勉強」というものをしてみたのです。(と言っても、前日からだけど)
これが意外に面白くて、なんせ偏差値"44"の高校ですから、僕でも簡単に学年上位になることが出来ます。
「もしかしたら、クラスで1番獲れるんじゃないか?」
一度目標を決めたらそれを達成するまでやめられない性格です。次のテスト、また次のテストとどんどん成績が上がっていき、遂に学年で一桁、クラスで1位を取ることができました。
「あ、勉強するの楽しいかも。」
こう思い始めたのは高2の終わり頃。
あれだけ嫌いで嫌いで仕方がなかった勉強も、徐々に結果が出るにつれてある種ゲームの様になり、次第に勉強に対するアレルギーは薄れていきました。
とは言っても所詮は偏差値44の底辺高校でクラス1位。
クラストップだからと言って、自分を「天才」と過信するほど馬鹿ではありません。
「まぁ普通の大学に行けたらそれでいいや。」
この頃の自分の頭の中には、まだ早稲田の「わ」の字もありませんでした。
そんな自分が、ある時を境に受験に目覚め、なんと早稲田を目指すことになります。
底辺高校の落ちこぼれが早稲田を目指すきっかけとなった話はまた次回。今回は以上です。
それでは。
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